2013年12月20日金曜日

子どもと向き合うということ。信頼関係は少しずつ、少しずつ積みあがっていくものだと思う。

子どもと向き合うということ。信頼関係は少しずつ、少しずつ積みあがっていくものだと思う。

わが子との関係も、毎日を共にするなかでの積み重ねでできてくる。


自分の子どもとの関係性でさえ、一朝一夕でできあがるものではなく、日々の暮らしの中で、目をかけ、手をかけ、見守り、抱きしめていくなかで少しずつできていくものだと思う。
これが、うまくできずにもどかしく思うというようなことは、我が子との関係性の中であっても度々起こってしまうものだし・・・
心が様々に変化し、周囲の環境もめまぐるしく変化していく子どもたちであるから、
それに対し対応していくのは大人といえど非常に難しいことだなと思います。

毎日気にかけてくれた隣のおばちゃん。

私が小学生の頃、隣のおばちゃんがいつも私と、弟を気にかけてくれた。
私の母が、私が11歳の時に亡くなってしまったときのことだ。
弟は まだ3年生で、状況もよく分かっていないようだった。

近所の人たちがよく気にかけてくれるなかで、
特に隣のおばちゃんは気にかけてくれた。
子供心に、あんまり迷惑をかけちゃいけないと思ったりしていたのだが、
毎日優しくしてくれるし、家にも上げてくれて
あまり覚えていないのだが、おやつを頂いたり、夕飯を頂いたりといったこともあった気がする。

道で会えば声をかけてくれるし、よくうちに声をかけにきてくれていたような気がする
(もうずいぶん昔のことなのでうろ覚えである(笑))

そのうち、おばちゃんには甘えてもいいような気がしてきた。
そうすると、他の大人の好意にも、甘えていいのかもしれないと思えるようになっていった。
友達のお母さんが、土曜日にお昼を作ってくれて、友達がお皿に山盛りで持ってきてくれたこともあった。
今考えると、本当に頭が下がるというか・・・

父は再婚せず、男手一つでそれからずっと私たちを育ててくれた。
掛け値なしに尊敬している。
きっと本当に大変だったと思う
(子どもができて本当にそう思う)

でもその頃を思い返すと、
私たち兄弟は地域の大人たちみんなに見守られていた気がする。

10代も後半になったころ、親戚に言われたことがある。
「よくグレずに頑張ったよな」

確かに、片親だとグレるみたいな風評が当時はあった。

その時なんか思ったのだ。
「寂しかったけど、寂しくなかった。」
当時は近所の大人たちも、同級生たちも、
私たちを暖かく受け入れてくれていたから。

信頼

していたんだと思う。

子どもたちが信頼できる大人って・・・

今、どれくらいいるのかな、と思う。
毎日気にかけて、
毎日見守ってくれる大人って
どれくらいいるのかなと。

教育って、何?

最近思う。教育って何?
勉強を教えるだけで教育じゃないと。
日本って識字率、基礎教育の浸透って多分進んでるんだろうけど、
自分を好きになれるような教育とか
本当に強く生きていくために必要な教育ってなされているのかなって。

学校に押し付けられるものじゃない

これはさすがに、全部学校にお任せでできるようなことじゃないと思う。
保護者は、自分の子どもだけじゃなくって、地域で教育できるようにするべきな気がする。
でもそれって、気が向いたときにとか、時間があるときにとかじゃなくて
毎日の積み重ねで、まず子どもたちに信頼されるようになってからの気がする。

自分も全然できないし、やり方もわからないけど。

自分がそうしてもらったくせに、いざ今、やって。と言われるとなかなかやり方はわからない。
でもなんか、そういう意識をもっておけるようにしたい。
仕事は都内で、帰る頃には子供たちは寝ているし、時間的にも
「お前できねーじゃねーかボケ!」って感じなんだけど、

なんか、自分が小学生の頃のことを思い出すと、
すごい恵まれていたなと思う。
気にかけてもらえる自分はきっと、それくらいの価値はある、”いい子”なのかな?
みたいなことも思っていた気がする。
※これ、すごーーーーく重要だったと思う。

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