2014年2月27日木曜日

年金について勘違いしていると思うこと

年金て、将来の自分の為に払うものではない。

年金の制度って、今年金を払っておくと、年老いた時に年金が貰える。

こういう言い回しで書くと、何か自分の為に払うものみたいに見えてしまいますが、本質的に言うとちょっと違うなと思うわけで。

年を取ると働けなくなるので、(実際には働ける人もいるし、働いている人たちもたくさんいますが)その人たちの為に働ける人たちが少しづつお金を出し合って、助け合いましょうというのが本質かなと。

つまり今払っている年金は


今のお年寄りの為のもの


であり




逆に言うと、今受け取っている年金は

若い頃自分が年金を払ったから貰えるお金

ではなく

今働いている人たちに貰っているお金

であると思う、という。


つまり何が言いたいかというと
「若い頃に払ったんだから貰って当然」
ではないと。

今払っている我々にしても、
「今払っているんだから年を取ったら貰って当然」
ではないと。


そういった観点に立ち戻った上で、
若い世代に負担を迫る(と捉えられなくもない)この制度をいつまで続けるのだろうかというのが非常に疑問です。

若い世代がどんどん増えていくような社会であれば、この制度も存在意義があったのでしょうが、少子高齢化になってしまえば、歪がどんどんと増大して社会全体を弱体化させる方に作用し始める。
若く、消費志向の強い(はずだった)層にお金を回さないと、経済全体がまわりにくくなるので、経済がより弱くなっていきます。


この制度が始まった時の事はよく知りませんが、打ち出し方が非常にまずかったのではないかと思ってしまいます。

私もそうでしたが、年金というものは「将来の自分の為に払うもの」という誤解をしていました。
そういう刷り込みをされているので、「老いてから困らないように払っておこう」
との意識になりますし、そうすると
「ちゃんと払ったのに貰えないなんてとんでもない!」
ということになり、破綻しているのが分かり切っているのにも関わらず誤魔化し誤魔化し制度を続けて行くという悪循環から抜け出せなくなっていくのです。

個人的には、すぐにでも廃止にして、新たな高齢者福祉施策に切り替えた方がいいだろうと思っていますが、そんな事は政治家は言い出せないだろうなとも思っています。(困るのが高齢者であり、票を一番持っているから)

でも、自分達の孫世代が困る事が目に見えているのに、「もう年金いらねーよ、孫に金使ってくれ」と言い出すような人がいてもいいような気がするんですが。


やっぱり少子高齢化が大きな原因だと思うので、単純に考えれば子供を増やしてなんとかしないといけない。そうすると取り組むべきってまず最初に少子化対策だと思うのですが、その辺に全然力が入れられていないなと感じるのは気のせいでしょうか?

2014年2月17日月曜日

政治の主導権は老人のもの

日本は高齢化社会で、若者の数は相対的にどんどん減っています。

単純に人数だけで考えても、若者の影響力というのはどんどん小さくなっているという事です。

加えて、投票率は年齢層と比例するように、高齢層の方が高い。
若者は選挙に行きません。

こうなると当然高齢層の総意が国民の声のようになるわけですが、この影響は実は私たちの生活に大きく関わってきていると思うのです。

板橋区や江戸川区の学童の問題も、予算的な問題が大きく関わっているだろうことは容易に想像されます。
都内では他の区においても、保育問題があるようで、

保育園の待機児童問題に加え
学童保育でも待機児童問題があり
区によっては未だ学童保育が整備されておらず、小学1年生までしか対象とならない、というような地域もあるそうです。


人は眼前の問題に目が行きがちなので、高齢層の有権者は自然、高齢者に向けた政策を支持します。
予算には限りがありますので、そうするとどこかが削られる訳ですが、その対象が子供に関する予算だったり、少子化対策だったりするのでしょう。

政党も、まず議席数を確保しない事には政治の舵取りができないわけなので、打ち出す政策としては高齢層に支持される政策を打ち出さざるを得ない、という数に迎合した政党運営になっていきます。

若い層はどんどん政治の流れの外に追いやられていきます。




かつては若者が政治に熱心な時代もありました。(その時代を知っている訳ではありませんが)
学生運動だとか、安保闘争だとか。

今の若者は政治に関心がなさ過ぎてけしからん。
みたいな話をよく聞くのですが、正直そういった流れというのは

学生運動や安保闘争を経験した
今の政財界が、意図的に作ってきたもの
というような気がしています。

下剋上により天下を取った秀吉が、新たな下剋上を恐れたのと同じ理屈です。

またあの頃のように、若者が政治に関心を持ち、大きな動きになったら困る。
若者には、

政治家は汚れていて、期待しても自分たちの為に何かをしてくれるなんていう事はない。
どの政治家も大差ないし、誰に投票しようが、自分たちの生活は何も変わらない。
自分の小さな一票には何の力もなくて、投票に行くだけ無駄。

そう思ってもらって、黙っていてもらった方が政治はやりやすいのです。議席数の予想も立てやすいですし。

固定票を持っている高齢層を離さないように運営する方が、新たに若者の票を獲得するように努力するよりも遥かに効率的だし、お金もかからないし。

子供の頃から、メディアは政治に関して不信感を植え付けるような報道しかしていません。
でもそれは、政治屋の側からすると、その方がいい、望まれた形だったのでしょう。




でもそんな流れは、ネットの登場によって変わり始めている、日本でも中東の春のような動きが始まるはずだ。

残念ながらそんな風にも思っていません。

中東の各国には、日本とは比べものにならない危機感があったし、何より日本は現状にある程度満足してしまっています。

人は我が身に危機が迫って来たり、不満がたまっていなければ動かないものです。例えその兆候が現れていたとしても。
実際日本は借金まみれで貧富の差は極端、物は溢れているのに貧困層が存在して、国際的な競争力もどんどん落ちている、深刻な高齢化社会で今後も負債ばかりが増えていく予想。
という危機的状況なのですが、今はまだ、
困っている人たちは自分の事で手一杯、今はまだ生活できている層も、自分たちの生活を守るのに手一杯。
まとまって声をあげるような雰囲気とは程遠いです。

さらに中東との差で言うと、年齢別人口分布が違いすぎます。
2011年時点で、エジプト他中東の各国の国民の約半数は24歳以下の若年層です。

若者が集まり、声をあげることで世の中を動かせるという事が、数の面で成り立っているわけです。

日本では若年層は数的に劣勢ですから、仮に声をあげたとしても高齢層に潰されてしまいます。




ただ、だから黙っていていいのかというとそれはかなりまずいとは思います。
しかし、ただ闇雲に投票に行こうと言うだけだと結局何も変わらないわけです。(若者側から見ると)

極端に言って、高齢化対策と少子化対策を天秤にかけた時に、少子化対策に重きを置いて考えていかないと、結局最後には高齢層も困る結果になることは目に見えているわけなので、
高齢層の側から、若者へ歩み寄っていくように変わっていかないと結局日本は滅びるのではないかと思うわけです。

そういった意味で考えて、年金制度というのはもう積極的に廃止にもっていった方が最終的には良い結果になるのではないかとか思うわけですが、これは次回書こうかと思います。

2014年2月12日水曜日

不幸の理由、貧困の理由

彼は何故泣いているのか

自分にはまだまだインプットが足りないと思って、仕事の合間にできた時間を主にインプットに使っていました。

前回ブログを更新してから、
都知事選があり、非常に低い投票率に「まあこんなものか」
と思ってみたり、
職場の同僚と
子育て、年金、政治のことについてふと話あったり
そんな中で色々な思考が頭を駆け巡り、ちょっとまとめてみるか、と思い立ったもので、この記事を書いてます。



そういえば、3年近く前のドラマ「ドン★キホーテ」というのを借りてきて見たのも一つのきっかけです。

このドラマは児童相談所を舞台にしたフィクションで、児童福祉司とヤクザの組長の魂が入れ替わってしまうところから物語が始まります。

子供を救いたいと思いつつ、しがらみ、ルール、様々なリスク、そんなものに縛られなかなか思い切った解決方法に出られない児童相談所の職員たちに、型破りなヤクザの組長(姿は児童福祉司)が加わることで、子供たちの問題が解決されていく。


この番組では、
児童虐待
ネグレクト
引きこもり
親権停止
未成年後見人
などのキーワードが出てきます。ドラマを観ていると、その言葉の輪郭は自然と分かるようになっています。


当時は私もそれ程それらの問題に詳しいわけでもなかったのですが、今改めて見ると新たな発見がありました。
単純にエンターテイメントとしても完成された作品なのでオススメです。



改めて見て思ったのですが、数年前から問題になっていたこれらの問題は、改善するどころかどんどん悪化しているように見えるということ。

自分にできることは悲しくなるほど限られていて。

ただ、「自分に何ができるのか」という事を再考するきっかけになりました。




まず私は、原因は何なのかという事を考え始めました。
特に、児童虐待という問題について。

虐待をしてしまう親達は、元々そういった特性を持った人たちなのか?

これを考えた時に、私は「きっと違う」と思ったのです。
個人差はありますので、みんながみんな子供が可愛いというわけではないだろうし、それは別に恥ずべきことでもないし、と思っています。親子の関わりは千差万別、周りと違うことは何も気にする必要のあることではない。
ですが、だからと言って、そういう親がイコール虐待をする、翻って虐待をしてしまう親はそういう親である、ということにはならないだろうと。

では何故、それは起こってしまうのか?


私はそれは本人だけの問題ではなく、「外部からのプレッシャー」が密接に関係している
と考えました。

外部からのプレッシャーというのは
夫婦関係
近所との関係
義母、義父との関係
仕事のストレス
体調、病気
金銭問題
多岐に渡りますが、
プレッシャーというのは水と同じで
高いところから低いところへ流れるように伝搬していきます。

強いところから弱いところへ。

その最終地点が、子供たち。



以前調べたところでは、虐待の原因の多くは貧困だそうです。
金銭的余裕が無い家庭では、その影響が様々な形で子供たちに現れる。
それは時に虐待という形を取る…


近年の虐待件数増加と経済の低迷はリンクしているように見えませんか?


お金がなくても…
というのはやはり悲しいかな綺麗事に過ぎなくて
やはり経済が低迷すれば治安も悪化するし、子供たちにも色々な影響が出るもの。



結局誰かを救うにはお金が必要という当たり前だけども世知辛い結論に辿り着いたわけですが、
その後私の思考は

まずは自分のごく近くの人たちを救うのが大事ということ、

そこからその「輪」の半径を広げていく以外には解決策はなさそうだということ、

という気づきと



政治は国民を救うのか?

年金は子供たちを殺す制度ではないか?

若者の政治離れは老人によって「仕組まれて」いるのではないか?

といった疑念に進んでいきました。

これら疑念については、後日私の考えをまとめてみようと思っています。




とにかくまずは自分の家族を守る為に、今まで以上にしっかりしないとな、と思った次第です。

2014年2月2日日曜日

学ぶこと

学ぶこと

始まりは学ぶことから、いつも始まる

このブログを書き始める時、いくらかの勉強はしたつもりであったものの、学べば学ぶ程、自分の知らないことが出てくる。

それは、児童養護施設や、発達障害の事ばかりではなくて、経済の事であったり、経営学の事であったり。

ああ、自分にはまだまだ知識がないのだなと痛感する日々である。


幸いな事に、私は職場で色々な学習をする事ができる環境にある。特に経営学であったり、事業戦略の事であったりといった分野について、色々と知ることができている。

何かを変えようとする時、経済的基盤というものはやはり重要である。

先進国である日本でも、経済的問題で困難を抱える事になる人々はたくさんいる。

そこを解決するにはやはり経済的基盤が必要だろう。


今、そうした事に関し解決策を見つける為には、圧倒的に知識が足りていないと思う。

学ぶこと。

30を過ぎて、これほど学ぶ事の大事さに気付かされるとは思っていなかった。
息子に負けないくらい、自分も知らない事をたくさん学んでいきたい

2014年1月26日日曜日

マスメディアは死んだ

マスメディアは死んだ

明日、ママがいないの問題から考えるマスメディア死亡説

明日、ママがいないに対する批判や、中止申し入れに関する反応を見ていて、思ったことがあります。


現代は多様化の時代であり、そこにフィットできないマスメディアは死んでいく


そんな事を思いました。

いろんな生き方が認知され、尊重されていく時代です。
少し時代を振り返れば、周囲と少しでも違うと迫害されるという時代もありましたが、そういった状況はどんどん変わってきています。



周りと違う人達一人一人も、情報発信の手段を得ていますから、それが世間に広まり、認められていくという流れもできてきていると思います。

個々人の趣味、趣向に関しても多様化してますし、選択肢も広がっています。


そんな中で、マス向けにコンテンツを作っても、リーチできる範囲が限られてしまうので、マスに届かない。
そういう時代に差し掛かってきているのではないかと思います。





人々が求めるのは、大衆に受け入れられるコンテンツではなくて、自分の為にカスタマイズされたコンテンツに移行してきています。
そしてそれを手に入れる手段も発達してきました。

マスメディアはかつて、唯一の選択肢でしたが、今や選択肢の一つになった。
しかも個々にカスタマイズする事は非常に困難。

マスメディアを選択する人が減ってきて、
今や


マスメディアは死んだ


のだと思うのです。


明日、ママがいないの内容に関して、
批判する人を批判する流れも出てきていますが、


自分が嫌だと思うものに、嫌だと言える社会は、時間をかけて先人達が築き上げてきたものではなかったでしょうか?

そういう歴史的観点から見ても、今ある流れは止まらないと思うし、メディアはそういった多様化に対応できるよう、自己を変化させていかないといけないのだと思います。




変化をやめたときが、死に向かう時というのは真理だと思っています。

私の目には、マスメディアは変化を起こせなくなった老体という風に見えます。

やはり、マスメディアは既に死んでいるのかもしれません。

2014年1月22日水曜日

「嘘ばっかり。」明日、ママがいない 第一話

「嘘ばっかり。」明日、ママがいない 第一話

フィクションだと思って見て欲しい。

そんなに詳しく知ってるわけじゃないけど、それでも違和感ばかりが目について、リアリティというのは微塵も感じなかった。

この題材についての是非とか、赤ちゃんポストに関する問題とかいうのは、もうニュースでも取り上げられていて、私が言う必要もないと思うので、リンクだけ貼っておきます。


【明日、ママがいない】全国の児童養護施設と里親会が日テレに抗議「人間は犬ではない」
この記事には、関連する他のニュース記事へのリンクも貼ってあったので、こちらを読めばいろいろ分かると思います。

『明日、ママがいない』問題について。作り手と受け手の想像力の相克
この記事では、施設出身者には肯定的意見もあると紹介している。
ただ、紹介されているリンク先を実際見ると、施設出身者の方でも、「こんなんじゃなかった」という意見を言う人もいる。
様は、「様々」ということだろうなと思います。


さて、私が感じた違和感ですが、
最初に、



今の時代には合わない



のではないかなという私の予測を書いておきます。
昔なら、こうだったかもしれない。
でも今はそういう時代じゃない
そういう事かもしれないと。


まず、

保護されたその日に、児童養護施設に連れていかれることは


だそうです。

現代では、色々な要素が絡み合っていて、養護が必要な子ども達の数は増えている。
それも、急激に。

対して、施設の数はそう簡単に増えないので、受け入れ先が慢性的に足りていないそうです。


そうなると、保護された子どもはどうなるのかというと、

児童相談所には、一時預かり用の施設があり、一旦はそこで預かる事になるそうです。
その期間は最長2ヶ月。
その間に、児童相談所の職員は、受け入れ先を方々あたってなんとか探し出す。

そういったことが、児童相談所の日常だと、職員の方から聞きました。

ドラマでは、事件のあったその日にはコガモの家に送られていますが、現代の現実では、そんなにスムーズに進まないのではないでしょうか?




次に、母親がコガモの家に来て、鈴木梨央さん演じる真希に、別々に暮らすことを話すシーンですが


親子の今後、将来については、施設、児童相談所、親の間で三者面談をして、話し合いながら決めていくのが原則です。

私も次男を預けていますが、定期的に話し合いを設けますし、預ける事になった当時も、2、3度児童相談所に足を運んで先の話を話し合いました。
その後も、度々自宅に様子を聞きにきて頂いたりもしました。

ドラマにあるように、
勝手に来てさようなら、しかも話し合いの期間もあの描写だと長くて2週間といったところですが、そんな短期間で決定が下りるというのは、かなり無理矢理な設定です。


調べているうちに、ドラマのwikipediaに以下のような記載を見つけました。

児童相談所

水沢 叶(みずさわ かない)〈25〉
演 - 木村文乃
職員。常に無表情で生気が見られず、子供・里親問わず淡々と接する。子どもたちの幸せを第一に願っており、子どもにも親を選ぶ権利があるとの信念の下、本来なら規則違反とされる里親候補の資料を佐々木に見せている。


この記述を見ても、このドラマがリアリティを追求するものでなく、エンターテイメントもののフィクション作品であるという事がわかる。


ただ、

もっと分かりやすく

フィクションだからね

って書いとけよ!


と思う。



2014年1月19日日曜日

餅つきとけん玉とともだち

餅つきとけん玉とともだち

学童で餅つきしてきました。

学童の行事で餅つきが行われまして、息子と一緒に参加してきました。
一年生の保護者なので、まだまだ溶け込むっていう感じではないですが、楽しく参加させていただきました。

こちらのブログにもその様子が。
餅つきの後、文化行事でけん玉ショーも行われました。私自身はショーを見ていないのですが、息子は大いに楽しんだようでした。



私の餅つきのお手伝いは、大きな臼を運ぶところから。
大人四人で運びました。なかなかの重さ!
保護者の協力があるから可能な行事だなーと思ったり…

お母様方は、キッチンで餅米をふかしたり、豚汁等の準備をして下さっていました。

といっても、餅つき現場に居たので詳しくは見てないんですが…


餅つきは、派手にペッタンペッタンやる前の、地味だけど大事な作業、つぶしこねが大変でした。
私も手伝いましたが、全体重をのせて

ぐぐぐっ

とつぶしても、なかなか米の形がなくなりません。
段々杵を持つ手が痺れてきます(非力!)
それでもまあなんとか米が潰れてくると、もちもちっと美味しそうな姿になっていきます。
子ども達も興味津々で

覗いたり

こねるの手伝ったり

ペッタンペッタン始まると、僕もやる!私もやる!

と、臼の周りに順番待ちの列ができていました。

餅が出来上がる工程なんて、なかなか見る機会ないですよね。
いい体験になったんじゃないでしょうか。


大人と子どもが入り混じる環境だと、いろんな事が起きます。

もち米を蒸す火の番を率先して手伝う高学年の男の子達。

餅つきの順番待ちを慣れた感じで誘導するパパ達。

餅つきをしているパパ達に餅や豚汁を差し入れてくれる女の子。

息子も餅つきを体験させてもらっていました。他の保護者の方が面倒を見て下さって、私は後ろから眺めながら写真を撮ってました(笑)

そのうち息子はすっかり他所のパパに懐いてべったり遊んでもらっていました。
本当に楽しそうでした。感謝感謝です!


私の方にも、ともだちができました。一年生の男の子です。(勝手にともだちということにしてしまってます(笑))

私自身他所の子との接し方とかよくわからないので、まだまだ話す子はいないんですが、一緒のベンチに腰掛けた時に「疲れた〜」と呟いていたので、「疲れちゃった?」と声をかけてみたら、いろいろ話を聞かせてくれました。

クッションのボールの様なものでサッカーの真似事をしたりもして…ちょっとだけですが。

将来の夢はサッカー選手で、香川選手が好きだと言ってました。(私にも分かる選手でよかった!)
そう言うだけあって、サッカーの動作は中々様になってました!

夢叶えてくれるといいなー。



けん玉ショーの終わり頃、息子を迎えに行ったのですが、講師の方が子ども達に向けて、
「諦めずに続ける事の大切さ」を伝えていました。
遊びの中からも、集中力が養われたり、諦めない力が身についたりするから、何事も諦めずに頑張ってみてね、というメッセージ。

深い!

いい事言う!

と思いながら聞いてましたが、子ども達にはどれ位伝わったのかな…?(笑)

でも、そういう場を経験させる事自体が大事だよな、と思いました。



親子共々、貴重な体験をさせてもらえた一日でした。