2014年1月26日日曜日

マスメディアは死んだ

マスメディアは死んだ

明日、ママがいないの問題から考えるマスメディア死亡説

明日、ママがいないに対する批判や、中止申し入れに関する反応を見ていて、思ったことがあります。


現代は多様化の時代であり、そこにフィットできないマスメディアは死んでいく


そんな事を思いました。

いろんな生き方が認知され、尊重されていく時代です。
少し時代を振り返れば、周囲と少しでも違うと迫害されるという時代もありましたが、そういった状況はどんどん変わってきています。



周りと違う人達一人一人も、情報発信の手段を得ていますから、それが世間に広まり、認められていくという流れもできてきていると思います。

個々人の趣味、趣向に関しても多様化してますし、選択肢も広がっています。


そんな中で、マス向けにコンテンツを作っても、リーチできる範囲が限られてしまうので、マスに届かない。
そういう時代に差し掛かってきているのではないかと思います。





人々が求めるのは、大衆に受け入れられるコンテンツではなくて、自分の為にカスタマイズされたコンテンツに移行してきています。
そしてそれを手に入れる手段も発達してきました。

マスメディアはかつて、唯一の選択肢でしたが、今や選択肢の一つになった。
しかも個々にカスタマイズする事は非常に困難。

マスメディアを選択する人が減ってきて、
今や


マスメディアは死んだ


のだと思うのです。


明日、ママがいないの内容に関して、
批判する人を批判する流れも出てきていますが、


自分が嫌だと思うものに、嫌だと言える社会は、時間をかけて先人達が築き上げてきたものではなかったでしょうか?

そういう歴史的観点から見ても、今ある流れは止まらないと思うし、メディアはそういった多様化に対応できるよう、自己を変化させていかないといけないのだと思います。




変化をやめたときが、死に向かう時というのは真理だと思っています。

私の目には、マスメディアは変化を起こせなくなった老体という風に見えます。

やはり、マスメディアは既に死んでいるのかもしれません。

2014年1月22日水曜日

「嘘ばっかり。」明日、ママがいない 第一話

「嘘ばっかり。」明日、ママがいない 第一話

フィクションだと思って見て欲しい。

そんなに詳しく知ってるわけじゃないけど、それでも違和感ばかりが目について、リアリティというのは微塵も感じなかった。

この題材についての是非とか、赤ちゃんポストに関する問題とかいうのは、もうニュースでも取り上げられていて、私が言う必要もないと思うので、リンクだけ貼っておきます。


【明日、ママがいない】全国の児童養護施設と里親会が日テレに抗議「人間は犬ではない」
この記事には、関連する他のニュース記事へのリンクも貼ってあったので、こちらを読めばいろいろ分かると思います。

『明日、ママがいない』問題について。作り手と受け手の想像力の相克
この記事では、施設出身者には肯定的意見もあると紹介している。
ただ、紹介されているリンク先を実際見ると、施設出身者の方でも、「こんなんじゃなかった」という意見を言う人もいる。
様は、「様々」ということだろうなと思います。


さて、私が感じた違和感ですが、
最初に、



今の時代には合わない



のではないかなという私の予測を書いておきます。
昔なら、こうだったかもしれない。
でも今はそういう時代じゃない
そういう事かもしれないと。


まず、

保護されたその日に、児童養護施設に連れていかれることは


だそうです。

現代では、色々な要素が絡み合っていて、養護が必要な子ども達の数は増えている。
それも、急激に。

対して、施設の数はそう簡単に増えないので、受け入れ先が慢性的に足りていないそうです。


そうなると、保護された子どもはどうなるのかというと、

児童相談所には、一時預かり用の施設があり、一旦はそこで預かる事になるそうです。
その期間は最長2ヶ月。
その間に、児童相談所の職員は、受け入れ先を方々あたってなんとか探し出す。

そういったことが、児童相談所の日常だと、職員の方から聞きました。

ドラマでは、事件のあったその日にはコガモの家に送られていますが、現代の現実では、そんなにスムーズに進まないのではないでしょうか?




次に、母親がコガモの家に来て、鈴木梨央さん演じる真希に、別々に暮らすことを話すシーンですが


親子の今後、将来については、施設、児童相談所、親の間で三者面談をして、話し合いながら決めていくのが原則です。

私も次男を預けていますが、定期的に話し合いを設けますし、預ける事になった当時も、2、3度児童相談所に足を運んで先の話を話し合いました。
その後も、度々自宅に様子を聞きにきて頂いたりもしました。

ドラマにあるように、
勝手に来てさようなら、しかも話し合いの期間もあの描写だと長くて2週間といったところですが、そんな短期間で決定が下りるというのは、かなり無理矢理な設定です。


調べているうちに、ドラマのwikipediaに以下のような記載を見つけました。

児童相談所

水沢 叶(みずさわ かない)〈25〉
演 - 木村文乃
職員。常に無表情で生気が見られず、子供・里親問わず淡々と接する。子どもたちの幸せを第一に願っており、子どもにも親を選ぶ権利があるとの信念の下、本来なら規則違反とされる里親候補の資料を佐々木に見せている。


この記述を見ても、このドラマがリアリティを追求するものでなく、エンターテイメントもののフィクション作品であるという事がわかる。


ただ、

もっと分かりやすく

フィクションだからね

って書いとけよ!


と思う。



2014年1月19日日曜日

餅つきとけん玉とともだち

餅つきとけん玉とともだち

学童で餅つきしてきました。

学童の行事で餅つきが行われまして、息子と一緒に参加してきました。
一年生の保護者なので、まだまだ溶け込むっていう感じではないですが、楽しく参加させていただきました。

こちらのブログにもその様子が。
餅つきの後、文化行事でけん玉ショーも行われました。私自身はショーを見ていないのですが、息子は大いに楽しんだようでした。



私の餅つきのお手伝いは、大きな臼を運ぶところから。
大人四人で運びました。なかなかの重さ!
保護者の協力があるから可能な行事だなーと思ったり…

お母様方は、キッチンで餅米をふかしたり、豚汁等の準備をして下さっていました。

といっても、餅つき現場に居たので詳しくは見てないんですが…


餅つきは、派手にペッタンペッタンやる前の、地味だけど大事な作業、つぶしこねが大変でした。
私も手伝いましたが、全体重をのせて

ぐぐぐっ

とつぶしても、なかなか米の形がなくなりません。
段々杵を持つ手が痺れてきます(非力!)
それでもまあなんとか米が潰れてくると、もちもちっと美味しそうな姿になっていきます。
子ども達も興味津々で

覗いたり

こねるの手伝ったり

ペッタンペッタン始まると、僕もやる!私もやる!

と、臼の周りに順番待ちの列ができていました。

餅が出来上がる工程なんて、なかなか見る機会ないですよね。
いい体験になったんじゃないでしょうか。


大人と子どもが入り混じる環境だと、いろんな事が起きます。

もち米を蒸す火の番を率先して手伝う高学年の男の子達。

餅つきの順番待ちを慣れた感じで誘導するパパ達。

餅つきをしているパパ達に餅や豚汁を差し入れてくれる女の子。

息子も餅つきを体験させてもらっていました。他の保護者の方が面倒を見て下さって、私は後ろから眺めながら写真を撮ってました(笑)

そのうち息子はすっかり他所のパパに懐いてべったり遊んでもらっていました。
本当に楽しそうでした。感謝感謝です!


私の方にも、ともだちができました。一年生の男の子です。(勝手にともだちということにしてしまってます(笑))

私自身他所の子との接し方とかよくわからないので、まだまだ話す子はいないんですが、一緒のベンチに腰掛けた時に「疲れた〜」と呟いていたので、「疲れちゃった?」と声をかけてみたら、いろいろ話を聞かせてくれました。

クッションのボールの様なものでサッカーの真似事をしたりもして…ちょっとだけですが。

将来の夢はサッカー選手で、香川選手が好きだと言ってました。(私にも分かる選手でよかった!)
そう言うだけあって、サッカーの動作は中々様になってました!

夢叶えてくれるといいなー。



けん玉ショーの終わり頃、息子を迎えに行ったのですが、講師の方が子ども達に向けて、
「諦めずに続ける事の大切さ」を伝えていました。
遊びの中からも、集中力が養われたり、諦めない力が身についたりするから、何事も諦めずに頑張ってみてね、というメッセージ。

深い!

いい事言う!

と思いながら聞いてましたが、子ども達にはどれ位伝わったのかな…?(笑)

でも、そういう場を経験させる事自体が大事だよな、と思いました。



親子共々、貴重な体験をさせてもらえた一日でした。



2014年1月16日木曜日

バランス

バランス

バランスを取るのは難しい。ついつい流される日本の労働者、私。

公私のバランスを適切に保つのは難しい。特にベンチャーに勤めていると、そのバランスは油断しているとすぐ崩れてしまう。



最近、ある人が言っていた。その人にとって、家族は何よりも大切であるし、家族との豊かな時間が仕事へのモチベーションに繋がり、結果として仕事のパフォーマンスを上げている。と。


実際その人は非常にうまく公私のバランスを取っているし、仕事のパフォーマンスも凄く高い。




そもそも、人間集中して仕事に取り組めるのは大体8時間が限度らしい。
きっちり集中して、8時間しっかり働いて、期待される成果を出せば、残業なんていらないはずなのである。

まあ、残業しなければ到底間に合わない業務量を強要されたりというケースもあるだろうから一概には言えないのだけれども…



ただ、これは自戒も込めての話になるのだけれども、

残業すると、人より仕事した気になっちゃうとかいうことってあると思う。



実際は結構無駄な時間を過ごしてたりするので、遅くまで残ったからって偉そうにするなよ、ということもあったりするのだけども…



要は、本人の精神的な弱さ、不安から、残業が多くなり、家庭と仕事のバランスが崩れるということって、あるよなーと思う。


残業しないでいつも帰ってたら、いつか会社が傾いたら、真っ先にクビにされるんじゃないか、みたいな…






最近は、そんな考え方こそが甘えだと思うようになり、帰れる時には早めに帰るようにしているつもり。
それでもまだまだ残業多いけど…


前よりは大分ましになった。

2014年1月14日火曜日

それはきっと、本能が恐怖しているのだと思います。

それはきっと、本能が恐怖しているのだと思います。

自分と違うものに恐怖するのが人間の本質

にわかに話題となっている
『聲(こえ)の形』
についての
『聲(こえ)の形』を読んで、リアル1級身体障害が語る『障害者として生きる現実』 という記事と、そこに寄せられるコメントを読んで思った事があります。

障害者に対するいじめや、批判、冷たい声というのは、「恐怖」によって引き起こされているなと。

人間は自分と違うものを見た時、本能的に恐怖するものです。
その対象が強いか弱いかは、二の次で、得体の知れない(と、自分で思っている)ものには恐怖するものです。

自分の理解できないものが目の前に存在することが許せないということだと思います。

そしてそれは、悲しいけれどひどく自然な事でもあると思います。動物的な本能であり、かつて人間はその本能によって自らを脅威から遠ざけていたのですから。




所謂幸せに育ってきた人というのは、通常そういった障害を持つ人達との接点を持たずに大人になります。

大人になればなるほど、自分の理解可能な枠の外にある存在に対し許容が出来なくなります。

自分の知らない世界があると認めることは、自分が未だ不完全な存在であり、「正しくない」可能性があることを認めることと同義です。

この事自体は、自分の世界を広げ、自己成長へと繋がる事ではあるものの、この

「自己の不完全性の認知と許容」

というのは、言うほど易しいことでなく、多くの人にとっては耐え難いストレスを伴うことです。


自分の経験、考え方、生き方に対する自信と言うものは、経済的、物質的豊かさによって育まれるものではない為、先進国であり、豊かであるとされる日本でも、その自信が欠如したまま大人になる人の方が多いのでしょう。


障害を持つ人の思考であったり、生活であったり、人生観であったり…
前述の記事に綴られる言葉は、まさしく"それ"であって、

「自己の不完全性の認知と許容」

が出来ない弱さを抱える多くの人々にとっては、これらの言葉を肯定する事が、

「自己の不完全性」

の肯定となってしまう。

記事のコメント欄には、否定的なコメントも並んでいましたが、それは正に人間の弱さの現れだなあと思いながら眺めていました。





子どものうち、おそらくは10歳とか、それくらいよりも前の子どものうち

その時期というのは、まだ「世界を受け入れる」ことのできる時期なのではないかなと思います。
この時期に、人間の多様性を学んだり、もっと具体的に言えば、障害を持つ方との交流などをもったりしていた場合、その世界は理解不能なものでなく、許容可能なものとして受け入れられていくのではないかと思います。


大人になってから、どれだけ理屈を学習したところで、受け入れられない事というのはあると思うからこそ、幼年期の多様な体験というのは、積極的にさせるべきだよなと思ったりします。



ネットというものが出来て、様々な情報が目の前に現れるようになりました。
その中には、そんな本能的恐怖を引き起こすような、自分の理解の枠を超えた情報も含まれて来ます。

しかし、そんな情報が豊かな時代に育つ子ども達が大人になる頃には、どんな情報も理解でき、許容できるように育っているかもしれません。


今は過渡期なのかもしれない。


情報の多様性から世界の多様性を理解し許容したとき、私達が驚くような包容力を持った人類が生まれるかもしれません。

というか、歴史を振り返れば、人類は確かにその方向に進化してきていますね。


ちょっと広げ過ぎましたか…

2014年1月13日月曜日

いのちがゴミになる瞬間

赤い車だったと思う。

これは以前住んでいたところでの話。


「キイィィイ!」

急ブレーキの独特の音がした。
私と妻は二階の窓から、
自宅に面した道路を覗き込む。

曲がり角を曲がって行く赤い車と



取り残された黒っぽい影と





赤い水たまり



猫だった。




二人で外に出てみると、
車の姿は既になく、
弱々しく横たわる猫だけが取り残されていた。


血を吐いていた。
口の周りが血で赤い。




だが、かすかに息がある。

「救急車…?…動物病院…!?保健所?」

こういう時、どうしたらいいのかわからなかった。


確か、まず通りに横たわる猫を自宅の庭に運んだような…

記憶が少し曖昧だが



猫は弱々しく、庭に運んだ際また血を吐いた。

保健所に電話しようということを話している間に、猫が震え始めた。



痙攣をおこしていた。


その時、
「ああ、もう助からないな…」
そう直感してしまった。

とにかく、保健所に電話をする。



幸い、電話は繋がり、話ができたのだが、


「保護は出来ますが、その猫の状態はどんな風でしょうか…」

ありのまま、「助かりそうもない」ことを伝えると






「生きている間は、私達(保健所)の担当なのですが、死んでしまうと…言いづらいですが、死体は「ゴミ」という扱いになりまして…市役所の清掃課の担当となってしまいます…」






衝撃だった。今まだかろうじて生きているこの『いのち』が、数時間経てば『ゴミ』として廃棄されてしまうという事実。



システムとしては、仕方ないことなのだろうなと理解はしつつ、何か言い尽くせぬ違和感を妻と共に感じた記憶がある。







その後私達は、ついに事きれてしまった猫の亡骸に手を合わせ、市の清掃課に連絡をした。

自宅前に置いておいてくれれば、回収しておくとの事だったので、ダンボールに亡骸をおさめて、通りから見える位置に置いておいた。



せめて、と思い線香に火を付けて、燃え移る心配のないところに置いた。





翌日、亡骸は回収されていた。



システムというのは、あるボーダーを決めて、その両側を

白か黒か

0か1か

定義することしか出来ない。

システムというのは常に冷酷とも言える冷静さをもって物事を切り分ける。


温かみのあるシステムというのは存在しなくて、それを使う人間に温かさが求められると思う。

2014年1月10日金曜日

明日、ママがいない

明日、ママがいない

児童養護施設が舞台のドラマらしい

キャッチコピーは、「捨てられたんじゃない、わたしたちが捨てたんだ。」「今、君の隣にママはいますか―?」
なんというか、私の知っている児童養護施設の印象とかけ離れていて、ちょっと疑問符が浮かんだ。
以前ちょっとした知り合いで、ドラマの脚本を書いている人がいたのだけど、題材について相当取材したり調査したりしたようで、かなりリアリティのある感じに仕上がっていた(脚本を読ませてもらった)
この「明日、ママがいない」というドラマの脚本は、どれくらい児童養護施設に関して詳しく取材、調査されて作られたんだろう?

児童養護施設にいるのは、「捨てられた」子どもたちじゃない

メディアが発信したイメージは広まる。それが仮に間違っていても。
キャッチコピーというのも厄介だ。中身でどんな展開になっていても、それはドラマを見た人にしか伝わらないが、キャッチコピーはCMだけ見た人の記憶にも残る。
「捨てられたんじゃない、私たちが捨てたんだ」というキャッチコピーは、キャッチーで、コピーとしては優秀なのかもしれないが、児童養護施設の子どもたちに対するマイナスのイメージを不用意に広めることになる気がする。
もしかしたら中身は素晴らしいのかもしれないが

営利目的に使っていい題材なのだろうか

児童養護施設とか、親のいない子どもたちというテーマを、営利目的の番組製作に使っていいものなのだろうかと思う。
センセーショナルな題材だが、その題材だったら、もっと他に発信の仕方があるだろうにと思う。

2014年1月9日木曜日

飢餓列島

飢餓列島

テレビドラマ パンドラII 飢餓列島ではなく、SF小説の飢餓列島

飢餓列島という小説は、眉村卓と福島正実が共作で出した、SF小説です。最近ドラマで「パンドラⅡ飢餓列島」というのがあったらしいですがそちらではないです。

食糧危機とエネルギーの枯渇によって近代文明が破壊され、日本が「飢餓列島」になって行く様が、リアリティたっぷりに描かれていました。
眉村卓さんの小説が好きで読んだのですが、眉村卓さんの作品はリアルな作風が多くて。SFという非日常を扱っているのに、明日にはそのような世界が待っているのではないかと思わせるような不思議な説得力があります。

他の作品で幻影の構成という小説があるのですが、それに出てくる「イミジェックス」というものは、現代のWEBやスマートフォンなんかを連想させて、不気味なリアリティがありました。


現代日本での飢餓

現代の日本にとって飢餓ってどんな存在なのだろうか?
全然関係ない話のように思えるけど、たまにニュースで、飢餓による孤独死とか報道される事がある。今の日本で何故そんな事が起こるんだろう?

以前コンビニで働いていた事がある。
コンビニで、売れずに残った食べ物がどうなるか知っていますか?

ゴミとして捨てられます。

家畜の餌にとか、肥料にとか、そういうのにも使われないです。
ただ、捨てられます。

ちなみに賞味期限より少し早く裏に回されて、そのまま廃棄処分です。

そこでは、食べ物が余っているんですよね。なのに、食べられなくて死ぬ人がいる。
なんか、直感的におかしいなと感じます。
まあ、いろんな事情があるんですけどね。

コンビニで働いててそんな事を知った時にも、
「このパン冷凍して飢餓のある国に送ったらいいじゃん」とか思ったものですが、
色々難しいんでしょうね。


飢餓は作られてると思う

現代にある飢餓というのは作られた飢餓というような気がする。
飢餓が多い国として中国があげられていたが中国産の食べ物って日本に溢れるほど流通してる。
途上国の食べ物が先進国に売られ、国内では飢餓で死ぬ人がいるのですね。
そういう意味で、今の飢餓は人災であり作られたものだと思うとともに、私たちはそのおかげで飢えずに済んでいるのだなと。

日本国内の飢餓については、これだけ物が溢れる中での飢餓です。
こちらは孤独や孤立といったものと、貧困というものが引き起こしていて、これもまた作られた飢餓だと思います。
人災であればなおのこと、人間の知恵や努力で解決できる気がするのですが

2014年1月7日火曜日

グラミン銀行の仕組みと日本での虐待防止

グラミン銀行の仕組みと日本での虐待防止

あまりまとまっていない思考ではありますが

虐待の原因の大きな部分を金銭的問題が占めているという背景と、孤立であったり周囲との隔絶が虐待をうむ原因の一つになるという仮説から考えると、虐待の防止に
  • 少額の融資(無担保)
  • 小規模コミュニティの形成
が効果を上げる可能性があるのではないかということを考えました。これはほぼグラミン銀行が取り組んだ仕組みと共通していると思うのですが、先進国である日本においても、貧困は確実に拡散しているし、マイクロファイナンスのような仕組みに対する社会ニーズは既にあるような気がしています。
今、30万円だけでも融資してもらえれば…というようなケースというのは意外と日本においても多いような気がするのです。

日本でのマイクロファイナンスの概案

融資を受ける際には、5家庭のアカウントが必要とする
5家庭は互いの家族の状況について互いに報告し合う(孤立させないという面と、監視し合うという面がある)
融資を受けたい人が、5家庭を集める
残りの4家庭も、同時にマイクロファイナンスの貸付条件を満たすことになる
1家庭の返済が滞ったとしても、残りの4家庭にペナルティはない
ただし返済が滞るとブラックリストには載ってしまうこととする
利息の利率は低く設定する
5家庭は互いに返済計画を確認し合う

まだ全然練り切れていないし的外れかもしれないが、こういった仕組みにニーズはあるような気がします。財源をまずどう確保するかと言ったところにも課題がありますし、全然具体的ではないのですが。

2014年1月6日月曜日

社会起業においても企業子会社やジョイントベンチャーという方法は有効か?

社会起業においても企業子会社やジョイントベンチャーという方法は有効か?

「ゼロから「新市場」を生み出す方程式 D2C 藤田明久 氏 著」

ドコモと電通のジョイントベンチャーとしてモバイル広告市場を開拓したD2Cの藤田氏の著作で、まだスマフォもないしiPhoneもない、ガラケーでしかも画面も小さくそのほとんどがモノクロ(!)という時代に、どうやってモバイル広告市場を開拓したのか、その経営手法や『新市場開拓の方程式』についての解説が主なコンテンツとなっていました。
その書籍の最後に、新市場開拓の為の4つの方法として
  • 企業内にプロジェクトを設置する
  • 起業する
  • 100%子会社を作る
  • ジョイントベンチャー
という方法が提示されていました。

社会起業においても企業子会社やジョイントベンチャーという方法は有効か?

この記述を見て、社会起業において、子会社やジョイントベンチャーという方法は可能性があるのか?という疑問がわきました。
社会起業のように、解決したい課題があったときに、独力でやろうとするとやはり色々とリスクも大きいしできないことも色々と出てくると思います。その点子会社やジョイントベンチャーのように企業の後ろ盾があれば、できることが増えて可能性は広がるだろうと思いつつも、企業が参画するからにはやはり利益を求められるし、そもそも収益性が低い事業の場合には・・・ということを考えると、ハードルは高いのだろうなと思ってしまう。

可能性はたくさんあったほうがいい

それでも、可能性はたくさんあったほうがいいだろうなと思います。最近は企業も学童保育に参入してきたりしていて、やり方によっては色々な可能性があるものだなというのは感じています。(現状の参入状況は、高級な学童保育に留まってはいますが・・・)可能性を狭めずに、色々な方向性を模索しないといけない時期だろうなと考えています。

2014年1月4日土曜日

「社会をよくしてお金も稼げるしくみのつくりかた」を読んで、感じたこと…「日本の『中』で困っている人」を救うことの難しさ

「社会をよくしてお金も稼げるしくみのつくりかた」を読んで、感じたこと…「日本の『中』で困っている人」を救うことの難しさ

困っていることがわかりにくい時、どうしたらいいのだろう

「社会をよくしてお金も稼げるしくみのつくりかた   マッキンゼーでは気づけなかった世界を動かすビジネスモデル「Winの累乗」 TABLE FOR TWO International 代表理事 小暮真久 氏 著」
TABLE FOR TWO という、世界の食の不均衡是正に向けた取り組みがあるそうです。
日本で、カロリーと栄養バランスに気を配った「TFTヘルシーメニュー」を注文すると、その料金には20円の寄付金が上乗せされており、アフリカの学校給食の提供のために寄付されるという仕組み。

この世界的に大きなうねりになっていて、成功をおさめているTABLE FOR TWO という取り組みを通して著者がつかんだ

「Winの累乗」という戦略(ビジネスモデル)
について、他の取り組み、NPOの活動の紹介や、わかりやすいフィクションの物語も交えて解説されていました。
どれも素晴らしい活動だと思ったし、その戦略も理にかなっていて非常に勉強になったのですが、

どの活動も、その活動の対象は「困っていること」が一目で分かるような対象でした。

困っていることがすぐにわかるというのは、助けを求めたり支援を募ったりしやすいですし、理解もされやすいと思うのですが、「困っている」ことが周りから見て分かりにくかったり、ともすれば「甘え」とも取られかねないようなケースもあると思うのですが、そういう場合、この戦略だけでは解決できないのではないかということも感じてしまいました。

心が生きられなくなる社会、日本

食料が不足している、インフラが整備されていない、教育が充実していない、
主に紹介されていた取り組みはこういった課題に対しての取り組みだったのですが、
こうした課題の場合不足しているものをいかに届けるか、を構築していく流れになると思います。
また、東日本大震災の際の支援に関しても、不足しているものを的確に把握し、迅速に届けるというのが重要な要素だったと思います。

発展途上国などでの課題に対して、非常に大きな効果をもたらすのだろうなと思いつつ、

日本という、「恵まれている」とされている社会の中で、置き去りにされてしまった時、この仕組みでは救いきれないのではないか?

そんな感想を抱いてしまいました。
日本という国は、物価も高いですし、教育にかかる費用も高いです。医療費もそれなりにかかりますし
そんな中で、

十分な教育が受けられない環境に置かれてしまったら

収入を得る手段を奪われてしまったら

精神を病んでしまったら

そういったマイノリティになってしまうと、日本という国は途端に生き辛い社会に変貌してしまうと思うのです。
その中で、それでも必死に生きようとしても、心がついてこない。
日本の自殺者数が多いのは、そういった社会の歪みが現れているのではないかと思ってしまいます。

日本という国の中で、マイノリティになってしまった人々を、どういう仕組みで救うのか

今回この『社会をよくしてお金も稼げるしくみのつくりかた』を読んで、自分が何かしたい対象というのはやっぱり日本の中のマイノリティ、弱者なんだろうなと感じました。
その戦略はまだ見えていないですし、問題の全容すら把握できていないような現状だとは思いますが・・・

児童養護施設の子どもたちだとか、
精神を病んでしまった人だとか、
虐待の被害を受けてしまった方だとか

身近にも、そういう人がいたりするとやはり、そういう人たちがどうしたら救われるのかというのを日々考えてしまったりします。

2014年1月2日木曜日

児童相談所と保護される子ども達の現状

児童相談所と保護される子ども達の現状

児童養護施設はもう満員

先日、児童相談所の職員の方とお話をする機会がありました。
次男が児童養護施設にお世話になっている関係で、面談をする機会があったりします。

その時、児童相談所に保護された子ども達の、養護先の決定までの流れなどについてお話を聞いたのですが

児童養護施設は今、子どもがいっぱいで、受け入れ先が中々見つからないという状況だそうです。

児童相談所に保護されてから

保護された子どもがどういった流れで養護先に行くのかも聞いてみたのですが、知らないことばかりで驚きました。

特にここに書いてまずいこともないと思うのでその時聞いたことをまとめると

  • 保護された子どもが一時的に暮らせる「一時保護施設」という施設が存在する
児童相談所に保護された後、すぐに児童養護施設に受け入れられるわけではなく、一時的に受け入れられる「一時保護施設」という施設があるそうです。
  • 一時保護施設にいられるのは基本的には2ヶ月間まで
この一時保護施設にいられるのは基本的には2ヶ月ほどで、その間に児童相談所の職員の方は保護した子どもの受け入れ先を探すそうです。
  • 一時保護施設はあくまで一時の保護なので、その間は学校などへは通えない
この一時保護施設にいる間は、学校などには通えないそうです。詳しい理由は聞いていませんが、複雑な事情で保護される子どもの事も考えると致し方ないことなのかなと思います。一部の問題のあるケースでは、親が無理に連れ帰ろうとしてしまうこともあるようで、事件に発展することもあるようです。

ただこの辺りは非常に複雑で、誤解から保護された場合だとか、親が離婚している場合など、一筋縄ではいかない問題もあるようです。

色々なケースがあるようですが、まだ勉強不足なのでこの点に関する是非は私には今のところ判断できません。

  • 一時保護施設の職員が先生代わりになって子ども達の勉強を見たりしている
この間の子どもの勉強はどうするのかというと、職員が先生代わりになって教えたりするようです。

  • 2ヶ月の間に擁護先の施設を探す
一時保護施設にいる間に、受け入れ先を探すということだったのですが、受け入れ先を見つけるのは大分大変なことのようです。
  • 擁護先は児童養護施設の他に里親など、方々宛を探し回る
児童養護施設に限らず、里親なども、考えられる受け入れ先には全てあたるらしいのですが、それでもどこも満員で受け入れ先がなかなか見つからないというのが最近の状況だそうです。
  • 県内では受け入れ先がどこもいっぱいで、県外の受け入れ先まであたってやっと、ということもしばしば
本当は、県内で受け入れ先が見つかるのが一番だということですが、現実はそうもいかず、県外の施設などもあたってやっと見つかるか、それでも見つからないというのが現状らしいです。
将来的には親元に返すパターンもあるようですし、両親の面会などにも、県外では不便になるようなのですが、それでも県内がいっぱいということが多いそうです。


児童養護施設も、施設の従業員の成り手も不足している

この現状が、特定の自治体固有の問題とは思えないので、おそらく全国的に需要と供給のバランスが崩れてしまっているのだろうと思います。

その背景には、近年の虐待件数の増加があるのではないかと思います。
ここ数年、世間の注目が集まったことから、通報件数が増加したこともあり、虐待の件数が増加傾向にあるというデータを何処かで見ました。

つまり、要保護児童の数が急激に増えてしまい、受入先の不足を招いてしまっているのだと思います。

子どもを受け入れるわけですから、すぐに増やせるような施設でもないし、従業員の成り手も誰でも構わないということではないでしょうから、需要に応えて受け入れ態勢を整えるのも、おそらく時間を要することだろうと思います。

里親に関しても、子どもを受け入れるまでには様々な手続きが必要だということを何処かで見ました。
こちらも子どもを託すわけなのでそれなりの手続きが必要となるのは自然なことだとは思いますが、どうやら里親になりたい夫婦も、受け入れ先を探している子どもも存在するのに、手続きの問題などでマッチングが進まない、というような現状もあるようです。

まずは問題の認識をすることが大切

どんな難しい問題も、まずはその問題、現実を正しく理解することからしか解決に進まないと思います。
児童相談所、児童養護施設、要保護児童の問題というのは、一般の人からすると普段あまり意識をしない「遠い問題」かもしれないのですが、当事者の子ども達にとっては非常に重大な課題だと思います。
まずより多くの人がこの問題を認識することが必要なのだろうなと思います。