2014年1月14日火曜日

それはきっと、本能が恐怖しているのだと思います。

それはきっと、本能が恐怖しているのだと思います。

自分と違うものに恐怖するのが人間の本質

にわかに話題となっている
『聲(こえ)の形』
についての
『聲(こえ)の形』を読んで、リアル1級身体障害が語る『障害者として生きる現実』 という記事と、そこに寄せられるコメントを読んで思った事があります。

障害者に対するいじめや、批判、冷たい声というのは、「恐怖」によって引き起こされているなと。

人間は自分と違うものを見た時、本能的に恐怖するものです。
その対象が強いか弱いかは、二の次で、得体の知れない(と、自分で思っている)ものには恐怖するものです。

自分の理解できないものが目の前に存在することが許せないということだと思います。

そしてそれは、悲しいけれどひどく自然な事でもあると思います。動物的な本能であり、かつて人間はその本能によって自らを脅威から遠ざけていたのですから。




所謂幸せに育ってきた人というのは、通常そういった障害を持つ人達との接点を持たずに大人になります。

大人になればなるほど、自分の理解可能な枠の外にある存在に対し許容が出来なくなります。

自分の知らない世界があると認めることは、自分が未だ不完全な存在であり、「正しくない」可能性があることを認めることと同義です。

この事自体は、自分の世界を広げ、自己成長へと繋がる事ではあるものの、この

「自己の不完全性の認知と許容」

というのは、言うほど易しいことでなく、多くの人にとっては耐え難いストレスを伴うことです。


自分の経験、考え方、生き方に対する自信と言うものは、経済的、物質的豊かさによって育まれるものではない為、先進国であり、豊かであるとされる日本でも、その自信が欠如したまま大人になる人の方が多いのでしょう。


障害を持つ人の思考であったり、生活であったり、人生観であったり…
前述の記事に綴られる言葉は、まさしく"それ"であって、

「自己の不完全性の認知と許容」

が出来ない弱さを抱える多くの人々にとっては、これらの言葉を肯定する事が、

「自己の不完全性」

の肯定となってしまう。

記事のコメント欄には、否定的なコメントも並んでいましたが、それは正に人間の弱さの現れだなあと思いながら眺めていました。





子どものうち、おそらくは10歳とか、それくらいよりも前の子どものうち

その時期というのは、まだ「世界を受け入れる」ことのできる時期なのではないかなと思います。
この時期に、人間の多様性を学んだり、もっと具体的に言えば、障害を持つ方との交流などをもったりしていた場合、その世界は理解不能なものでなく、許容可能なものとして受け入れられていくのではないかと思います。


大人になってから、どれだけ理屈を学習したところで、受け入れられない事というのはあると思うからこそ、幼年期の多様な体験というのは、積極的にさせるべきだよなと思ったりします。



ネットというものが出来て、様々な情報が目の前に現れるようになりました。
その中には、そんな本能的恐怖を引き起こすような、自分の理解の枠を超えた情報も含まれて来ます。

しかし、そんな情報が豊かな時代に育つ子ども達が大人になる頃には、どんな情報も理解でき、許容できるように育っているかもしれません。


今は過渡期なのかもしれない。


情報の多様性から世界の多様性を理解し許容したとき、私達が驚くような包容力を持った人類が生まれるかもしれません。

というか、歴史を振り返れば、人類は確かにその方向に進化してきていますね。


ちょっと広げ過ぎましたか…

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