2014年1月26日日曜日

マスメディアは死んだ

マスメディアは死んだ

明日、ママがいないの問題から考えるマスメディア死亡説

明日、ママがいないに対する批判や、中止申し入れに関する反応を見ていて、思ったことがあります。


現代は多様化の時代であり、そこにフィットできないマスメディアは死んでいく


そんな事を思いました。

いろんな生き方が認知され、尊重されていく時代です。
少し時代を振り返れば、周囲と少しでも違うと迫害されるという時代もありましたが、そういった状況はどんどん変わってきています。



周りと違う人達一人一人も、情報発信の手段を得ていますから、それが世間に広まり、認められていくという流れもできてきていると思います。

個々人の趣味、趣向に関しても多様化してますし、選択肢も広がっています。


そんな中で、マス向けにコンテンツを作っても、リーチできる範囲が限られてしまうので、マスに届かない。
そういう時代に差し掛かってきているのではないかと思います。





人々が求めるのは、大衆に受け入れられるコンテンツではなくて、自分の為にカスタマイズされたコンテンツに移行してきています。
そしてそれを手に入れる手段も発達してきました。

マスメディアはかつて、唯一の選択肢でしたが、今や選択肢の一つになった。
しかも個々にカスタマイズする事は非常に困難。

マスメディアを選択する人が減ってきて、
今や


マスメディアは死んだ


のだと思うのです。


明日、ママがいないの内容に関して、
批判する人を批判する流れも出てきていますが、


自分が嫌だと思うものに、嫌だと言える社会は、時間をかけて先人達が築き上げてきたものではなかったでしょうか?

そういう歴史的観点から見ても、今ある流れは止まらないと思うし、メディアはそういった多様化に対応できるよう、自己を変化させていかないといけないのだと思います。




変化をやめたときが、死に向かう時というのは真理だと思っています。

私の目には、マスメディアは変化を起こせなくなった老体という風に見えます。

やはり、マスメディアは既に死んでいるのかもしれません。

2014年1月22日水曜日

「嘘ばっかり。」明日、ママがいない 第一話

「嘘ばっかり。」明日、ママがいない 第一話

フィクションだと思って見て欲しい。

そんなに詳しく知ってるわけじゃないけど、それでも違和感ばかりが目について、リアリティというのは微塵も感じなかった。

この題材についての是非とか、赤ちゃんポストに関する問題とかいうのは、もうニュースでも取り上げられていて、私が言う必要もないと思うので、リンクだけ貼っておきます。


【明日、ママがいない】全国の児童養護施設と里親会が日テレに抗議「人間は犬ではない」
この記事には、関連する他のニュース記事へのリンクも貼ってあったので、こちらを読めばいろいろ分かると思います。

『明日、ママがいない』問題について。作り手と受け手の想像力の相克
この記事では、施設出身者には肯定的意見もあると紹介している。
ただ、紹介されているリンク先を実際見ると、施設出身者の方でも、「こんなんじゃなかった」という意見を言う人もいる。
様は、「様々」ということだろうなと思います。


さて、私が感じた違和感ですが、
最初に、



今の時代には合わない



のではないかなという私の予測を書いておきます。
昔なら、こうだったかもしれない。
でも今はそういう時代じゃない
そういう事かもしれないと。


まず、

保護されたその日に、児童養護施設に連れていかれることは

稀

だそうです。

現代では、色々な要素が絡み合っていて、養護が必要な子ども達の数は増えている。
それも、急激に。

対して、施設の数はそう簡単に増えないので、受け入れ先が慢性的に足りていないそうです。


そうなると、保護された子どもはどうなるのかというと、

児童相談所には、一時預かり用の施設があり、一旦はそこで預かる事になるそうです。
その期間は最長2ヶ月。
その間に、児童相談所の職員は、受け入れ先を方々あたってなんとか探し出す。

そういったことが、児童相談所の日常だと、職員の方から聞きました。

ドラマでは、事件のあったその日にはコガモの家に送られていますが、現代の現実では、そんなにスムーズに進まないのではないでしょうか?




次に、母親がコガモの家に来て、鈴木梨央さん演じる真希に、別々に暮らすことを話すシーンですが


親子の今後、将来については、施設、児童相談所、親の間で三者面談をして、話し合いながら決めていくのが原則です。

私も次男を預けていますが、定期的に話し合いを設けますし、預ける事になった当時も、2、3度児童相談所に足を運んで先の話を話し合いました。
その後も、度々自宅に様子を聞きにきて頂いたりもしました。

ドラマにあるように、
勝手に来てさようなら、しかも話し合いの期間もあの描写だと長くて2週間といったところですが、そんな短期間で決定が下りるというのは、かなり無理矢理な設定です。


調べているうちに、ドラマのwikipediaに以下のような記載を見つけました。

児童相談所

水沢 叶(みずさわ かない)〈25〉
演 - 木村文乃
職員。常に無表情で生気が見られず、子供・里親問わず淡々と接する。子どもたちの幸せを第一に願っており、子どもにも親を選ぶ権利があるとの信念の下、本来なら規則違反とされる里親候補の資料を佐々木に見せている。


この記述を見ても、このドラマがリアリティを追求するものでなく、エンターテイメントもののフィクション作品であるという事がわかる。


ただ、

もっと分かりやすく

フィクションだからね

って書いとけよ!


と思う。



2014年1月19日日曜日

餅つきとけん玉とともだち

餅つきとけん玉とともだち

学童で餅つきしてきました。

学童の行事で餅つきが行われまして、息子と一緒に参加してきました。
一年生の保護者なので、まだまだ溶け込むっていう感じではないですが、楽しく参加させていただきました。

こちらのブログにもその様子が。
餅つきの後、文化行事でけん玉ショーも行われました。私自身はショーを見ていないのですが、息子は大いに楽しんだようでした。



私の餅つきのお手伝いは、大きな臼を運ぶところから。
大人四人で運びました。なかなかの重さ!
保護者の協力があるから可能な行事だなーと思ったり…

お母様方は、キッチンで餅米をふかしたり、豚汁等の準備をして下さっていました。

といっても、餅つき現場に居たので詳しくは見てないんですが…


餅つきは、派手にペッタンペッタンやる前の、地味だけど大事な作業、つぶしこねが大変でした。
私も手伝いましたが、全体重をのせて

ぐぐぐっ

とつぶしても、なかなか米の形がなくなりません。
段々杵を持つ手が痺れてきます(非力!)
それでもまあなんとか米が潰れてくると、もちもちっと美味しそうな姿になっていきます。
子ども達も興味津々で

覗いたり

こねるの手伝ったり

ペッタンペッタン始まると、僕もやる!私もやる!

と、臼の周りに順番待ちの列ができていました。

餅が出来上がる工程なんて、なかなか見る機会ないですよね。
いい体験になったんじゃないでしょうか。


大人と子どもが入り混じる環境だと、いろんな事が起きます。

もち米を蒸す火の番を率先して手伝う高学年の男の子達。

餅つきの順番待ちを慣れた感じで誘導するパパ達。

餅つきをしているパパ達に餅や豚汁を差し入れてくれる女の子。

息子も餅つきを体験させてもらっていました。他の保護者の方が面倒を見て下さって、私は後ろから眺めながら写真を撮ってました(笑)

そのうち息子はすっかり他所のパパに懐いてべったり遊んでもらっていました。
本当に楽しそうでした。感謝感謝です!


私の方にも、ともだちができました。一年生の男の子です。(勝手にともだちということにしてしまってます(笑))

私自身他所の子との接し方とかよくわからないので、まだまだ話す子はいないんですが、一緒のベンチに腰掛けた時に「疲れた〜」と呟いていたので、「疲れちゃった?」と声をかけてみたら、いろいろ話を聞かせてくれました。

クッションのボールの様なものでサッカーの真似事をしたりもして…ちょっとだけですが。

将来の夢はサッカー選手で、香川選手が好きだと言ってました。(私にも分かる選手でよかった!)
そう言うだけあって、サッカーの動作は中々様になってました!

夢叶えてくれるといいなー。



けん玉ショーの終わり頃、息子を迎えに行ったのですが、講師の方が子ども達に向けて、
「諦めずに続ける事の大切さ」を伝えていました。
遊びの中からも、集中力が養われたり、諦めない力が身についたりするから、何事も諦めずに頑張ってみてね、というメッセージ。

深い!

いい事言う!

と思いながら聞いてましたが、子ども達にはどれ位伝わったのかな…?(笑)

でも、そういう場を経験させる事自体が大事だよな、と思いました。



親子共々、貴重な体験をさせてもらえた一日でした。



2014年1月16日木曜日

バランス

バランス

バランスを取るのは難しい。ついつい流される日本の労働者、私。

公私のバランスを適切に保つのは難しい。特にベンチャーに勤めていると、そのバランスは油断しているとすぐ崩れてしまう。



最近、ある人が言っていた。その人にとって、家族は何よりも大切であるし、家族との豊かな時間が仕事へのモチベーションに繋がり、結果として仕事のパフォーマンスを上げている。と。


実際その人は非常にうまく公私のバランスを取っているし、仕事のパフォーマンスも凄く高い。




そもそも、人間集中して仕事に取り組めるのは大体8時間が限度らしい。
きっちり集中して、8時間しっかり働いて、期待される成果を出せば、残業なんていらないはずなのである。

まあ、残業しなければ到底間に合わない業務量を強要されたりというケースもあるだろうから一概には言えないのだけれども…



ただ、これは自戒も込めての話になるのだけれども、

残業すると、人より仕事した気になっちゃうとかいうことってあると思う。



実際は結構無駄な時間を過ごしてたりするので、遅くまで残ったからって偉そうにするなよ、ということもあったりするのだけども…



要は、本人の精神的な弱さ、不安から、残業が多くなり、家庭と仕事のバランスが崩れるということって、あるよなーと思う。


残業しないでいつも帰ってたら、いつか会社が傾いたら、真っ先にクビにされるんじゃないか、みたいな…






最近は、そんな考え方こそが甘えだと思うようになり、帰れる時には早めに帰るようにしているつもり。
それでもまだまだ残業多いけど…


前よりは大分ましになった。

2014年1月14日火曜日

それはきっと、本能が恐怖しているのだと思います。

それはきっと、本能が恐怖しているのだと思います。

自分と違うものに恐怖するのが人間の本質

にわかに話題となっている
『聲(こえ)の形』
についての
『聲(こえ)の形』を読んで、リアル1級身体障害が語る『障害者として生きる現実』 という記事と、そこに寄せられるコメントを読んで思った事があります。

障害者に対するいじめや、批判、冷たい声というのは、「恐怖」によって引き起こされているなと。

人間は自分と違うものを見た時、本能的に恐怖するものです。
その対象が強いか弱いかは、二の次で、得体の知れない(と、自分で思っている)ものには恐怖するものです。

自分の理解できないものが目の前に存在することが許せないということだと思います。

そしてそれは、悲しいけれどひどく自然な事でもあると思います。動物的な本能であり、かつて人間はその本能によって自らを脅威から遠ざけていたのですから。




所謂幸せに育ってきた人というのは、通常そういった障害を持つ人達との接点を持たずに大人になります。

大人になればなるほど、自分の理解可能な枠の外にある存在に対し許容が出来なくなります。

自分の知らない世界があると認めることは、自分が未だ不完全な存在であり、「正しくない」可能性があることを認めることと同義です。

この事自体は、自分の世界を広げ、自己成長へと繋がる事ではあるものの、この

「自己の不完全性の認知と許容」

というのは、言うほど易しいことでなく、多くの人にとっては耐え難いストレスを伴うことです。


自分の経験、考え方、生き方に対する自信と言うものは、経済的、物質的豊かさによって育まれるものではない為、先進国であり、豊かであるとされる日本でも、その自信が欠如したまま大人になる人の方が多いのでしょう。


障害を持つ人の思考であったり、生活であったり、人生観であったり…
前述の記事に綴られる言葉は、まさしく"それ"であって、

「自己の不完全性の認知と許容」

が出来ない弱さを抱える多くの人々にとっては、これらの言葉を肯定する事が、

「自己の不完全性」

の肯定となってしまう。

記事のコメント欄には、否定的なコメントも並んでいましたが、それは正に人間の弱さの現れだなあと思いながら眺めていました。





子どものうち、おそらくは10歳とか、それくらいよりも前の子どものうち

その時期というのは、まだ「世界を受け入れる」ことのできる時期なのではないかなと思います。
この時期に、人間の多様性を学んだり、もっと具体的に言えば、障害を持つ方との交流などをもったりしていた場合、その世界は理解不能なものでなく、許容可能なものとして受け入れられていくのではないかと思います。


大人になってから、どれだけ理屈を学習したところで、受け入れられない事というのはあると思うからこそ、幼年期の多様な体験というのは、積極的にさせるべきだよなと思ったりします。



ネットというものが出来て、様々な情報が目の前に現れるようになりました。
その中には、そんな本能的恐怖を引き起こすような、自分の理解の枠を超えた情報も含まれて来ます。

しかし、そんな情報が豊かな時代に育つ子ども達が大人になる頃には、どんな情報も理解でき、許容できるように育っているかもしれません。


今は過渡期なのかもしれない。


情報の多様性から世界の多様性を理解し許容したとき、私達が驚くような包容力を持った人類が生まれるかもしれません。

というか、歴史を振り返れば、人類は確かにその方向に進化してきていますね。


ちょっと広げ過ぎましたか…

2014年1月13日月曜日

いのちがゴミになる瞬間

赤い車だったと思う。

これは以前住んでいたところでの話。


「キイィィイ!」

急ブレーキの独特の音がした。
私と妻は二階の窓から、
自宅に面した道路を覗き込む。

曲がり角を曲がって行く赤い車と



取り残された黒っぽい影と





赤い水たまり



猫だった。




二人で外に出てみると、
車の姿は既になく、
弱々しく横たわる猫だけが取り残されていた。


血を吐いていた。
口の周りが血で赤い。




だが、かすかに息がある。

「救急車…?…動物病院…!?保健所?」

こういう時、どうしたらいいのかわからなかった。


確か、まず通りに横たわる猫を自宅の庭に運んだような…

記憶が少し曖昧だが



猫は弱々しく、庭に運んだ際また血を吐いた。

保健所に電話しようということを話している間に、猫が震え始めた。



痙攣をおこしていた。


その時、
「ああ、もう助からないな…」
そう直感してしまった。

とにかく、保健所に電話をする。



幸い、電話は繋がり、話ができたのだが、


「保護は出来ますが、その猫の状態はどんな風でしょうか…」

ありのまま、「助かりそうもない」ことを伝えると






「生きている間は、私達(保健所)の担当なのですが、死んでしまうと…言いづらいですが、死体は「ゴミ」という扱いになりまして…市役所の清掃課の担当となってしまいます…」






衝撃だった。今まだかろうじて生きているこの『いのち』が、数時間経てば『ゴミ』として廃棄されてしまうという事実。



システムとしては、仕方ないことなのだろうなと理解はしつつ、何か言い尽くせぬ違和感を妻と共に感じた記憶がある。







その後私達は、ついに事きれてしまった猫の亡骸に手を合わせ、市の清掃課に連絡をした。

自宅前に置いておいてくれれば、回収しておくとの事だったので、ダンボールに亡骸をおさめて、通りから見える位置に置いておいた。



せめて、と思い線香に火を付けて、燃え移る心配のないところに置いた。





翌日、亡骸は回収されていた。



システムというのは、あるボーダーを決めて、その両側を

白か黒か

0か1か

定義することしか出来ない。

システムというのは常に冷酷とも言える冷静さをもって物事を切り分ける。


温かみのあるシステムというのは存在しなくて、それを使う人間に温かさが求められると思う。

2014年1月10日金曜日

明日、ママがいない

明日、ママがいない

児童養護施設が舞台のドラマらしい

キャッチコピーは、「捨てられたんじゃない、わたしたちが捨てたんだ。」「今、君の隣にママはいますか―?」
なんというか、私の知っている児童養護施設の印象とかけ離れていて、ちょっと疑問符が浮かんだ。
以前ちょっとした知り合いで、ドラマの脚本を書いている人がいたのだけど、題材について相当取材したり調査したりしたようで、かなりリアリティのある感じに仕上がっていた(脚本を読ませてもらった)
この「明日、ママがいない」というドラマの脚本は、どれくらい児童養護施設に関して詳しく取材、調査されて作られたんだろう?

児童養護施設にいるのは、「捨てられた」子どもたちじゃない

メディアが発信したイメージは広まる。それが仮に間違っていても。
キャッチコピーというのも厄介だ。中身でどんな展開になっていても、それはドラマを見た人にしか伝わらないが、キャッチコピーはCMだけ見た人の記憶にも残る。
「捨てられたんじゃない、私たちが捨てたんだ」というキャッチコピーは、キャッチーで、コピーとしては優秀なのかもしれないが、児童養護施設の子どもたちに対するマイナスのイメージを不用意に広めることになる気がする。
もしかしたら中身は素晴らしいのかもしれないが

営利目的に使っていい題材なのだろうか

児童養護施設とか、親のいない子どもたちというテーマを、営利目的の番組製作に使っていいものなのだろうかと思う。
センセーショナルな題材だが、その題材だったら、もっと他に発信の仕方があるだろうにと思う。